MISHIMAGAZINE #7

『今を歩く』 #7 「未来の巨匠たち。その世代と。- SARAN YEN PANYA AND NOON PASSAMA」

Photography by KLEINSTEIN

 

タイのプミポン国王が崩御する少し前のことだが、10月にまたバンコクに訪れた。東京に既に訪れていた秋の気配はバンコクの街にはまだ無かった。あるいはそういう気配は訪れない場所なのかもしれない。春に来た時と変わらず空港の中にはじっとりとした湿気に満ちていた。半袖姿の屈強な警備員の姿をみて、寒い場所から自分は来たのだと改めて思う。

同じことを今は亡き梅棹忠夫が『文明の生態史観』(1957)に書いていたことを思い出した。梅棹は日本から東南アジアへと降りた私とは逆の立場で、中東から東南アジアへ長い旅を経て、東京の空港に降り立った時に日本に漂う空気の肌寒さを感じたらしい。日本という国は寒い国なのだ。

仕事の合間に、バンコクの友人がプロジェクトを手がけたという百貨店の内装を観に行った。Siam Discovery(サイアムディスカバリー) という百貨店はnendoを主宰する日本人デザイナーの佐藤ナオキが建築の監修をして国内でも話題になった新しい百貨店だ。この百貨店のVMD(Visual Merchandising / 商品ディスプレイ)をタイの友人のSaran Yen Panya (サラン・イェン・パニヤ)がを手掛けたと聞いていて、今回訪れるのを楽しみにしていた。

 

 

 

 

Siam Discovery 1)発売前のPlay Station VRのデモに人が集まる。衣類、雑貨、食品だけでなくドローンなどテクノロジー寄りの商品が置かれ、最上階にはトレーニングジムとシェアオフィスが存在する。日本の百貨店よりも前衛的な試みが行われている。

 

 

彼と最初にコンタクトをとったのは2011年の冬の頃だった。仕事の企画で面白いアーティストが居ないかリサーチをしている時、彼の製作した椅子をモチーフにしたアート作品が目に止まり、メールを介して声をかけたのが最初だった。話をしてみると、私と同い年で、どうやら別のタイ人のデザイナーの友人などに共通の知人がいることがわかり、仕事の話とは別に少しずつ情報交換するようになったのだ。実際に会ったのは、六本木にある21_21 DESIGN SIGHTの「活動のデザイン展」(2014)で彼の作品が展示されたタイミングだった。夏の終わりだっただろうか。ヒップホップ調のファッションセンスなのに穏やかな話しぶりで拍子抜けしたのだが、話をするとタイ国内ではアーティストとしての活動よりも、デザイン事務所の経営で知られているという。名刺には“Art & Creative Director, Bartender”と肩書が書かれていた。どうやら友人と一緒にバーの経営もしていてカウンターに立つことがよくあるらしい。

 

”Cheap Ass Elite” by Saran Yen Panya 2)タイの伝統工芸である木工と大量生産されるプラスチックの籠(インダストリアル)の融合。風刺的なアート作品。© 56th Studio

 

WTF CAFÉ & GALLERY3)Saranも携わるLouis Vuittonのガイドブックにも紹介されている。© WTF CAFÉ & GALLERY

 

南青山の喫茶店で話をきいていると、どうやら東南アジアの雄でもあるタイの新しい文化は私と同じ世代30台前後の人達によってうまく醸成されているらしかった。欧米や日本へ留学し、現地で働き、海外でのネットワークを形成した後に国内で事務所を構えるのが王道のようだ。その世代が横に有機的ネットワークを作り産学官と連携し文化を引っ張っている。Saranはスウェーデン有数の芸術大学であるKonstfakの卒業生だった。

 

同い年の彼と話していると、一世代ほど離れた人とタイムスリップして話しているような感覚があった。彼の状況は高度経済成長期に海外で活動している芸術家や実業家が、帰国後に双方の国の国際的な窓口として働き、現代文化の潮流を生み出したてきたのと似ているのだ(そして今や彼ら・彼女らの多くが既に白髪交じりの巨匠になっている)。外の空気を吸い込みつつ、中の空気を外に吐き出すフィルターのような役割。国や都市とのアイデンティティを外部への記号と交換する文化の翻訳家だ。国内に市場が成熟していない時代、海外に出て学び、その後国内に市場を作る役割を担った文化の礎としての世代。

 

そしてインターネットのほぼネイティブ世代として高度経済成長時代をまさに歩んでいる彼らの動きは、おそらく50年前に同じような境遇にいた巨匠達の世代と比べてもよりクレバーでアップデートされているように思う。欧米や東京そして上海などアジアの大都市との物価の差と、人的ネットワークをレベレッジして、地元の拠点で製作した物をインターネットを駆使して世界各国へ首都圏の物価で流通させる。そこから生み出される利益から出てくる経済的余裕が新たな文化的、そして個々人が考える実験的な活動に向かっていくのだ。巨匠や大御所の居ない世界で彼らは生きている。前衛的活動は経済活動に結びつかないのが先進国でのアノマリーだが、彼らの世界では彼らが今の最先端であり、経済活動の舞台にいて、更には時代の批評家なのである。

 

自由にレイアウトされた百科店を歩いていると、そういったSaranを含めた若い同世代の仕事が垣間見えてくると同時に自分自身がいま置かれている地政学的な状況について改めて考えさせられる。英語で情報を常に発信し、国際的ネットワークを次々と築く彼らを見ていると、我々にとって近いはずの欧米は彼らにとって距離的にも精神的にもより身近だということを知る。

 

Saran Yen PanyaのStudioに併設されたGallery4)自分の作品だけでなく、友人のアーティスト達の発表の場になっている。© 56th Studio

 

最近ではアーティストの副業はどの大都市でも当たり前になっている。アート作品を売るだけで生活しているアーティストは成功者であり、見渡すと有名なエージェントがついていても副業をしているケースが往々にしてある。思えば「私の職業は寺山修司です」といった同郷の寺山修司も、戯曲や詩の製作だけではなくTV番組の製作か競馬の予想まで副業のオンパレードな人だった。いやむしろ、本業や副業といった枠組みではなく複数の活動のコンテクストをつくることで本来の自分自身の人間としての有り様をより正確に描写していたのかもしれない。
ホワイトキューブに設置するオブジェクトを作るアーティスト。バーテンダーという肩書。思えば村上春樹もバーテンダーだった。こんな事を考えていると「この世は仮の世」という言葉が頭に浮かんでくる。苦難の多かった古代の言葉を現代人が引用して、怠慢の言い訳にすることを度々目にするがそんな暇はないのだ。荒川修作さんがこの言葉を真っ向から批判していたことをふと思いだす。

王が崩御して黒に染まったバンコクはまた華やかな街に染まるのだろう。そしてそれらが私と同じ世代によって行われていることを思うと、自分も悠長なことはしてならない。そんな気がして師走がますます慌ただしく感じてしまう。

次にバンコクを訪れた時は彼の作ったカクテルを飲みながら、新しい現代の創造について話したいと思う。

 

歓楽街のライブハウス。バンドがR.E.Mを歌っていた。

 

 

 

タイのネットワークと初めに繋がったきっかけの一つ。2010年に一緒に仕事をしたジュエリーデザイナーの一人Noon Passamaの仕事。彼女がSAATCHI GALLERY LONDONでのプロジェクトでジュエリー/アクセサリー業界のインサイダーとして自分を紹介してくれたのが思えばタイの人々へと繋がる最初の一歩だった。彼女とSaranのつながりから芋づる式に全部が繋がっていく。下はSAATCHI GALLERYで配られたカタログブックの目次。 ©Noon Passama, Photo by Severafrahm

 

National Museum Stationの駅に張られたNoon Passamaの展示ポスター。アムステルダムとタイを往来して彼女も製作を続けている。© Noon Passama

 

Noon Passama

noonpassama.com

 

56thStudio Private Gallery by Saran Yen Panya

56thstudio.com

 

References
1 発売前のPlay Station VRのデモに人が集まる。衣類、雑貨、食品だけでなくドローンなどテクノロジー寄りの商品が置かれ、最上階にはトレーニングジムとシェアオフィスが存在する。日本の百貨店よりも前衛的な試みが行われている。
2 タイの伝統工芸である木工と大量生産されるプラスチックの籠(インダストリアル)の融合。風刺的なアート作品。© 56th Studio
3 Saranも携わるLouis Vuittonのガイドブックにも紹介されている。© WTF CAFÉ & GALLERY
4 自分の作品だけでなく、友人のアーティスト達の発表の場になっている。© 56th Studio