FREE MAGAZINE ISSUE#8 “LOCAL, GLOBAL, IN-BETWEEN”

Originally published by FREE MAGAZINE. This TEXTS entry preserves the article body for the KLEINSTEIN archive.

ローカル、グローバル、その狭間。

三年前の春、GOOGLE MAPで世界中の知らない街のストリートビューをしばらく眺めていた時期がある。仕事で海外の都市を訪れても、風景の中に現れる見慣れたロゴや記号、モノ、バズワード、そういった「カルチャー」のパターンに何となく飽きてしまって、どこか知らない都市をふと訪れてみたくなったからだ。

訪れたいと思った街のイメージは、大都市特有の日常の風情があり、普段東京では経験することのない混沌さがある場所だった。欧米文化や言葉があまり通じないところ。古さと新しさが混在し、そして人のエネルギーが溢れる街に行きたかった。ここまでフィルタリングしてしまうと世界を眺めてもそれほど選択肢が無いように思えた。南米、アフリカ、中東か、あるいは東南アジアだろうと当たりをつけ、地図を眺め、東京から直行便が出ている街を選んだ結果、ベトナムの首都ハノイを訪れることにした。ファッションの話題でこの街がフィーチャーされていなかったのが訪問の決め手だった。空港から市街にタクシーで向かう途中、見慣れない建築物と道路中を埋め尽くすけたたましいモーターバイクの騒音を聞いて、心の奥底で安堵したことを覚えている。

ハノイの中心部は街の中央にあるホアンキエム湖を中心に、主に南北に分かれている。北側は旧市街で、ノスタルジックなアジアの風景を求める観光客と、路面のマーケットで生活を営む地元の人々が混ざり合う。ストリートフードと排気ガスの匂いが混ざって漂うストリートには雑貨、食品、また工具や電化製品まで様々な店が並ぶが、一番目を引くのは衣料品店だろう。ベトナム国内で生産され、本来はMADE IN VIETNAMのブランド品として国外に輸出されるはずだったであろう、NIKEやADIDAS、CALVIN KLEINやLACOSTEなど見慣れたブランドの横流し品が、コピー商品とともに並んでいる。中にはCHANELのメンズウェアを売っている店まであるが、当然ながらカール・ラガーフェルドがデザインしたものではない。

南側には、かつてフランスの植民地だった頃に建てられた、フランス風の建築がまだ残っている。その多くは高級住宅や政府機関としてまだ使われているようだ。夜、オレンジ色の外灯の光が象牙色の壁を夜に照らす光景を歩きながら眺めると、少しだけパリのマレ地区の夜を思い出す。政府機関の建物の入り口には、気怠さと険しさが入り混じった表情を浮かべた若い警官が立っていて、彼らが着るカーキグリーンの制服に夜の外灯の光が当たる様子は言葉にするのが難しい。肌寒くなると、いつもこの街に響くバイクの騒音と、混沌とした町並み、そして蒸し暑い夜の光景が懐かしくなる。

世界中の雑誌で毎月、あらゆる国の「カルチャー」が特集されている。我々が乗っかっている資本主義のシステムは、常にまだ消費されていない「新しいカルチャー」を追い求めている。ファッションも同様に、常に新しい「カルチャー」を養分として繁茂する。ここで語られる「カルチャー」や「文化」とは、二~三百年ほどの間、ヨーロッパ、時にアメリカで生まれたシステムとの距離感を基準に無意識に語られ、評価されている「モノ」のことだ。あらゆる文化的対象が欧米のシステムで名前を新たに獲得することではじめて権威を持ち、広がっていく姿は我々にとっては見慣れた話だと思う。例えば、権威とは無縁の路上から生まれたバンクシーのグラフィティでさえ、アートマーケットの文脈で語られ、「ストリートアート」という名前がつけられることで、はじめて多くの人に認識され価値を認め始める。

東京、香港、シンガポール……。アジアの大都市の「程よい異質感」は、国内外の誰かによって採集され、「グローバル」な文脈で理解可能な形に再編集され、消費地に向けて発信されてきた。こういった異質な感覚が世界に溶け込み当たり前のものになってしまうまでの過程を我々は「カルチャー」と呼んでいるのだろう。人はカルチャーを温度に例えてその強度を形容するが、熱いのは我々の社会であり、社会の中で「何か」が溶ける過程を我々はカルチャーと呼んでいるにすぎないのかもしれないと思う。

日本では江戸後期には西洋文化を咀嚼し自らの生活や風習に取り入れるという行為を進歩的としていた。そのスタイルをかつて「和魂洋才」といったが、欧州が世界の覇権を握る前は中国文化を意識した、「和魂漢才」という言葉が使われていた。こういった言葉が残っていることが理由で、日本は歴史的に極端に舶来主義であると評価する人もいるようだが、人類史を振り返ると舶来主義は日本というよりも人間の性質のようだ。

実際、ヨーロッパ発祥と思われているものの多くは、イスラム圏からヨーロッパに伝わったものであるという事実は、少しだけ世界史の教科書に書かれてはいるものの、広く周知されていない事実だろう。イラク戦争で徹底的に破壊されてしまったイラクの首都バグダードはおよそ千年前、現在のニューヨークに比肩する世界経済と文化のるつぼだった。今、CNNやBBCのニュースに時折映るバグダードの姿を見て、当時の栄華を想像するのは難しい。当時、世界各地の「カルチャー」はおそらく、この砂漠の街の基準で評価されていたのかもしれないと思うと不思議な気分になる。世界中の人間が「移民」としてバグダードへ集まり、その街で暮らしていた。世界中の新しいものが新たな名前を獲得し、広がっていく中心地だったのだ。ここに住む移民達がアラビア語を自国語へ苦心しながら翻訳し「カルチャー」として世界各地に紹介していた姿を想像すると、それは世界の大都市へ移住した現代人が「グローバルで多様」と称する価値観を世界に発信する今と少し重なる。

「FOR THINKERS AND DRINKERS.」という看板を掲げるBAR TADIOTOは、植民地時代に建てられたオペラ座の近くにある。いかにもYOHJI YAMAMOTOがインスピレーションにしそうな、モロッコ風の古着を合わせた独特のスタイルで、いつも気怠そうにウイスキーを飲みながら仕事をしているのは、オーナーのNGUYEN QUI DUCだ。表向きにはバー、ラーメン屋、そして古着屋を経営するビジネスマンだが、本業は作家である。彼はベトナム戦争時の1969年にアメリカの西海岸に亡命した元難民だが、2006年にハノイに移住して十年ほどになる。故郷の街ではなく、ハノイを選んだのは街を訪れたときのエネルギーを感じたからだという。共産党の検閲があり本を出版することは容易ではないこの国で、文章を書く彼の店には、自然と毎晩、多様な人が集まる。ドナルド・トランプやウラジミール・プーチンも泊まるホテル、メトロポール ハノイに滞在する外国人、美術関係者、ビジネスオーナー、建築家、映像作家、写真家や編集者、少し背伸びをする若い大学生、海外で「文化人」として活動している帰国中のベトナム人、そして得体の知れない人々。ベトナム語の他に、英語やフランス語が飛び交うその場所は、混沌としたハノイと世界が繋がる薄暗い狭間である。そこはグローバル化されていないローカルな「何か」がカルチャーとして溶けていく過程を見ることが出来る生きた劇場のようだ。「出来ることなら、戦争ではなくて、70年代のゴールデン街に入り浸りたかった」と語る彼の周りを見ていると、もしかすると70年代の東京はかつてこういったものだったのかもしれないと想像してしまう。

蒸し暑い夏の季節、一年振りにこの街を改めて訪ねると、MAISON MARGIELA、SAINT LAURENT PARISなどを扱うラグジュアリーブティックRUNWAYの路面店がいつも通るストリートから撤退し商業ビルに移転していた。南ベトナムのホーチミン市(旧サイゴン)では、一つの権威になっているらしいこのショップが、この北ベトナム側のハノイでも南側にあるというのは、何だか歴史に似て皮肉なものを感じてしまう。強い日差しの中で、日焼けして浅黒くなった顔の男が二人、かつてそのブティックがあったビルのエントランスの階段に座っていた。険しい表情でタバコを吸っているバイクタクシーのドライバーと、空を仰ぐ建設作業員らしき男。石畳の歩道を歩いてその前を横切る女子学生達。砂埃で汚れた階段の脇のその光景には、まだファッションが言葉に出来ないエネルギーが潜んでいる。

「最近は、フランスの植民地時代のスタイルをもてはやすのがトレンドになっている。『COLONIAL TASTE』という言葉で世界中にフィーチャーされてしまってね。良い思い出ばかりではないはずなのだけれど、若者と外国人を惹きつけるには手段としては効果的らしい。本当は誰かが新しい何かを発明しなければならないのかもしれないと思う。名前のまだない何かを」とDUCは語る。

植民地時代に建てられたフランス調の建物の中はリノベーションされ、中には新しいショップやレストランが作られつつあった。植民地であることに抗ってきたこの街の古い建物に、少しずつ見慣れたロゴが現れ、そこに若者と外国人が集まるというトレンドも一つの皮肉だろうか。

「簡単に名前がつけられないものでありたいと思う」。

街には日がまた登り沈み、人やモノが流れていく。モノだけでなく人や思想までが記号化され消費されていく様子は、社会の中の自然なのだ。我々は世界という名の野生で今を生きている。都市の自然、そのローカルとグローバルの狭間にある場所から、我々が求めるシーンは生まれていく。

A MAN WITH YANKEES CAP

LOUIS VUITTON AND BIKES

NGUYEN QUI DUC

I WANT TO BE FASHIONABLE NO MATTER WHEN

A BOY WITH NIKE CHAIN

A BIKE COVERED BY COMMUNISM

FREE MAGAZINE ISSUE#6 “EVERYONE IS IN NEED OF A DARK SPACE AGAIN.”

Originally published by FREE MAGAZINE. This TEXTS entry preserves the article body for the KLEINSTEIN archive.

およそ5年程前だと思う。新宿駅から歌舞伎町に向かう途中、ゴールドの三本ラインが袖に入った黒いADIDASのジャージトップに、色の落ちたブルージーンズを穿いた年老いたホームレスを見たことがある。靴は地方の古い旅館のトイレにあるような、通称「便所サンダル」といわれる茶色いビニールのサンダルで、そのサンダルの茶色が、人工的な加工では再現できないような雰囲気で、色褪せたジーンズのブルーと奇妙に合っていた。髪は白髪と黒髪が混ざったボサボサの長髪で、肌は薄黒く、細い目には緊張感が浮かんでいた。ストリートで生きる路上生活者という生き方は、まるでストリートを実際に支配するために必要な職業なのかもしれない、と思ったものである。彼の立ち姿が今も記憶に焼き付いていて、時々、同じ道を通る度、その光景を写真に収めなかったことを後悔している。ストリートファッション、ストリートスタイルという言葉が巷では当たり前に使われているが、この言葉を目にしたり、耳にする度、いつもこの路上生活者の男性と新宿の街の様子が呪いのように脳裏に浮かんでくる。

ヴィム・ヴェンダースが1989年に公開した山本耀司のドキュメンタリー映画『都市とモードのビデオノート』の中で、山本耀司が、とある一冊の写真集を開くワンシーンがある。その写真集はアウグスト・ザンダーという写真家の『PEOPLE OF THE 20TH CENTURY』という作品集で、20世紀前半のドイツ(当時はワイマール共和国)の市井の人々のポートレイトを収めたものだ。作品は「農民」「熟練工」「女性」「階級と職業」「芸術家」「町」「路上生活者と退役軍人」と七つのセクションに分けられていて、それぞれのポートレイトの下には人物の職業が書かれている。まだ写真が珍しかった時代だったせいもあり、どの被写体も少しだけシリアスな顔つきをしているが、不思議なことにどの人物も職業と服、そして顔、人物の雰囲気が奇妙なまでに一致している。山本耀司はビデオの中でこう話している。「現代の都市の人々を見ていると、どんな職業なのか分からない人が大勢います。ただこの写真の中の人はそれぞれがその人らしい顔をしている気がするのです」。ヴェンダースはビデオの中で写真集の中の「ジプシーの青年」を映し、こうナレーションを入れている。「彼のお気に入りはこのジプシーだと思う。単に服装だけでなく、その目つきや、ポケットに入れた手の様子」。

ストリートの話に戻ろう。現在の「ストリートファッション」といわれるものの原型が実体化し、認識されるようになったのは、1967年頃のイギリスでジョン・ドーヴとモーリー・ホワイト11ジョン・ドーヴとモーリー・ホワイトは1966年から1967年にかけて、テキスタイル用の特性のインクを自作し、入れ墨をシルクスクリーンでプリントした「PAINLESS TATTOO」というインナーウェアのコレクションを制作する。彼らがその後制作した作品はパンクファッションの源流となる。が、ポップアートを衣服の上にシルクスクリーンでプリントをしたことから始まる。キャンバスやポスターに閉じ込められていた様々なメッセージが、元々は単なる肌着であったTシャツの上にプリントされることで、ファッションではワンアイテムでメッセージ発信することが可能になった。宗教や民族的な衣装を除けば、かつて「スタイル」はザンダーが写真を撮っていた時代のように、様々な衣服の組み合わせと、人物の雰囲気、顔の表情、振る舞い、あるいは職業の組み合わせのバランスから構成されていた。しかし、プリントされた言葉、絵、写真といった“記号を着る”という行為により「スタイル」は「メッセージ」として圧縮され、誰もが簡単に衣服を通して表現をすることが可能になったのだ。エルヴィス・プレスリーをはじめとする初期のロックンロールシンガー、その後のイギー・ポップ、ビートルズやローリング・ストーンズ、パティ・スミス、そして彼らに続く様々なシンガー、アーティスト、時代の寵児は、新しく生まれたファッションのインフルエンサーとして機能し、ストリートのファッションが大衆文化の中で次第に強い意味を持ち始める。若者は「REBEL」と書かれた服を着ることで、反抗心を示すことが出来るようになり、アーティストのポートレイトがプリントされた服や、彼らのスタイルを真似ることで、そのメッセージを発信することが出来るようになった。歌を歌うことや、物を作ることで表現をするという手段を持たない若者達が、衣服を着ることでシンプルに自らを表現出来るようになったのだ。大人達にとって見慣れない、聞き慣れないメッセージが発信される中心が「ストリート」として認識されたのはおそらくこの頃である。こうした背景もあり、「ストリートファッション」は若者のファッションという言葉とほとんど同じ意味として使われているが、しかし、それは根源的な部分にあるストリートの原点を矮小化してしまう。

かつてファッションにとっての「裏通り」は、アフリカやアジアといった、欧米から見て「エキゾチックなもの」を指していた。イヴ・サンローランはアフリカや中国に「見慣れないもの」の原石を求め、高田賢三は「見慣れない」日本のテキスタイルを異邦人の立場でヨーロッパに持ち込んだ。それらは人とは違うものを身に着けたい、人と違う人間でありたい(ただし極端に違ってはならない)と思う人々の心を一時掴むのだが、一度それらが消費され、見慣れたものになってしまうとエキゾチックさは失われていく。こうして人はいつも見慣れない危うさを探している。完全に見たことのないものというよりは、少しリスクを冒さないと見ることが出来ないものを。見慣れた風景の中では見付からないような、先鋭化された緊張感をどこかで日常の中に探しているのだ。自分とは普段無縁の世界であるはずの世界から生まれたものを表の世界で身に着けることで、人々は他者とは違う自分でありたいというメッセージを発してきた。しかし、奇妙なもので、人間はこうして新しい物を作っておきながら、それが流行すると距離を置き始める。マイノリティの先鋭的なメッセージは、大勢によって発せられることで消費の波に飲まれ、次第に本来の先鋭さを失い、最終的にはメインストリームによる「外しのアクセント」として消化されてしまう。皮肉なことにメインストリームを拒む態度は、「隷属への拒否をするコミュニティ」への隷属に繋がってしまう。そして人々は、新大陸を目指す狩猟者のように新しい場所を探し始める。

今、ストリートはどこに在るのだろうか? ロンドンのショーディッチ、ニューヨークのアルファベット・シティやクイーンズ、ロサンゼルスのサウス・セントラル、ベルリンのクロイツベルク……。主要大都市のストリートには少しずつ表通りの雰囲気が流れ始め、次第に「裏通り」ではなくなりつつある。そこで見付かったスタイルの原石は採掘され、消費され、大衆化されていく。そして裏と表の混ざり物の空気では満足出来ない人々は、新しい裏の空気を探し続けている。2年程前から、ファッションの中でキリル文字が踊り、旧ソ連や東欧のユースカルチャーをベースにしたスタイルがランウェイを飾るのを見ていると、ストリートはもしかすると西側ではもう食い尽くされてしまったのかもしれないと思う。やがて東側のストリートも表通りに完全に露出し、そして消費し尽くされるのも時間の問題かもしれない。

文学の世界で、スタイルは文体を意味している。ファッションでいうスタイルとは、人が所属するコミュニティにある装いのパターンと、個人の体の奥から滲み出てくる癖の間に生まれる「有り様」のようなものだ22筆者が過去に『ÉKRITS』に寄稿した「ファッション、離散化される人間の様装」に、ロラン・バルトの研究と関連した少し詳しい話が書かれてある。。もし人間の一生が小説のようなものだとすれば、人と違った自分でありたいという欲求や、非日常の「ストリート」の空気を纏いたいという欲求も、それぞれの人生の過去の出来事から生まれた文脈に縛られたものだろう。今身に着けている衣服は小説に書かれた一文のように、私達の未来とその有り様に影響を与える。そしてスタイルは過去と未来の間を漂う。あらゆるものが見慣れてしまったものになりつつある今、スタイルを作るとはどういうことなのだろうか。それを考えるタイミングなのかもしれない。最後に『都市とモードのビデオノート』のビデオの冒頭で流れるヴィム・ヴェンダースのナレーションを引用して、
筆を置きたいと思う。ー

YOU LIVE WHEREVER YOU LIVE,

YOU DO WHATEVER WORK YOU DO,

YOU TALK HOWEVER YOU TALK,

YOU EAT WHATEVER YOU EAT,

YOU WEAR WHATEVER CLOTHES YOU WEAR,

YOU LOOK AT WHATEVER IMAGES YOU SEE,

YOU’RE LIVING HOWEVER YOU CAN,

YOU ARE WHOEVER YOU ARE.



BIG BREAST T-SHIRT BY JOHN DOVE AND MOLLY WHITE AT “SENSIBILITY AND WONDER” EXHIBITION AT DIESEL ART GALLERY, TOKYO JAPAN (2017) PHOTOGRAPHY YUSUKE KOISHI

BACK STREET (2017)
 PHOTOGRAPHY YUSUKE KOISHI

FREE MAGAZINE ISSUE#5 “NEXT DECADE / 辺境から近境へ”

Originally contributed by Yusuke Koishi to FREE MAGAZINE ISSUE#5 in March 2017. This TEXTS entry preserves the Japanese body text provided for the KLEINSTEIN archive.

人類史を通して世界の流れはパワープレイヤーの栄枯盛衰と、辺境から来る新たな力の勃興と参入によってもたらされてきた。あたかも偶然生まれているかのように見える今現在の事象の数々も、過去を振り返ってみれば全く無関係に見える辺境の動きから生まれていることがある。ファッションの世界ではいつも辺境にいるアウトサイダーがパリという中心部へ何かを持ち込むことで新陳代謝が行われている。東京からパリへ、アントワープからパリへ、ウィーンからパリへ、ロシアからパリへ……。辺境に生まれた異質な文化の匂いがパリという舞台を通して浄化され、またストリートへ還り消費されていくのだ。

私はまだ小さかったため全く記憶にないのだが、80年代から90年代前半は創造的な黄金期だったという話を耳にすることが多い。いつも話題に上るのは、COMME DES GARÇONSによってもたらされた服とは何かということに関する問い掛けや表現方法、発明された生産上の独自の加工法であり、またそこに刺激を受けたマルタン・マルジェラがもたらしたウィットのある創作と試みや、ウィーンでひっそりと活動していたヘルムート・ラングの80年代から90年代前半にかけてパリで起こしたメンズウェアとウィメンズウェア双方にもたらした潮流といったところだろうか。

辺境からもたらされたものはファッションのコミュニティの中央ではあまり馴染みの無い空気や考え方で、当時は不快に思った人もいただろうと思う。重鎮が並ぶ、エスタブリッシュされていたコミュニティの階級の中でヒエラルキーの下に位置していた当時の若者達は、自分達の味方が、代弁者が現れたとも思ったかもしれない。時を経てそのパワーバランスも変わり、当時の若者達も今や業界の中で入れ替わり、エスタブリッシュされたコミュニティの重鎮そのものになっている。上に挙げた三つのブランドのうち二つは既に創業者が引退し、会社は本人の手を離れた。そして今や現代の若者達が耳にするのは、既にエスタブリッシュされてしまった「かつての若者達」が語る、インターネットがまだろくに整備されていない時代に生まれた古事記のような伝説のような話である。今現在の生々しいリアリティは何なのだろうかと常々思う。

数十年の時代を通しで眺めてみると、その時々において強い価値観とデザインの提示を通して注目を集め、業界、ないしは社会に記録的な突風を巻き起こしてきた人物や組織の名前は数多く目にする。しかし、その持続性を伴い産業の仕組みや仕事の考え方といったバックエンドの部分までに大きな影響を与えたという意味で、現代の潮流を決定付けてきた人物や組織の名前はそうそう沢山上がらない。そういった文脈では一代で築き上げられたCOMME DES GARÇONSは忘れてはならない数少ない例の一つだろう。また、同じく一代で、そして40年で巨大なラグジュアリーブランドをゼロから作り、今も現役で多角的な活動を続けているジョルジオ・アルマーニ、或いは自身の力を使って大資本の動きに影響を与え続けるアナ・ウィンターもその数少ない例の一つとして評価する人もいるかもしれない。しかし、忘れてはならない人物がもう一人いる。KERINGと並び、今では業界のラグジュアリーブランドを多数傘下に収めるLVMHの会長ベルナール・アルノーである。

正直なところ、業界の現場ではいつもあまり表立って彼の名前が語られているのを耳にすることはそれほど多くはない。ファッション誌はおろか文化誌にもそれほどフィーチャーされる名前ではないし(『THE ECONOMIST』や『FORTUNE』などの経済誌には登場するが)、ストリートで耳にすることはほとんど無いかもしれない。若い人達の話題に上らないという意味では業界の中心にいながら辺境にいるような不思議な立ち位置なのだが、彼はファッションとは無縁だったはずの外の世界から新しく参入した真に辺境の人間だった。そして、少しずつ時間を掛けて辺境から近境へ、そして中心へと移動し、30年ほどの間に業界全体のゲームを作り変えてきた一人なのだ。本人のインタビューにも多分に書かれていることだが、少し字数を割いてベルナール・アルノーが現在に至るまでを少し紹介してみたいと思う。

ベルナール・アルノーは建設業界の人間だった。戦後の1949年、ベルギーとの国境にある街ルーベに生まれ、実家は建設業を経営していた。フランスの高級官僚や科学者、経済界の重鎮を輩出するエコール・ポリテクニークを1971年に卒業後、22歳の時に父が経営する建設会社に入社する。そこから十数年の動きが劇的だが、入社して五年後の1976年に経営者である父を説得し、会社の建設事業を売却させ、その資金を使って旅行者向けのアパートメント開発に特化した不動産業へ会社を作り変えて成功を収める。

1981年にフランソワ・ミッテランがフランスの大統領に就任し、私企業の国有化政策をはじめとする社会主義的な政策を打ち出すと、ベルナール・アルノーは米国へ移住し、同時期に移住先のニューヨークにいた財界人と交友関係を築く。そしてそこで生まれた人的ネットワークが後の活動の礎となっていく。

1984年。ちょうど今、ラフ・シモンズがディレクターになり話題となっているCALVIN KLEINや、昨年に創業者が引退してしまったRALPH LAUREN、そしてGIORGIO ARMANIといった面々が北米で栄華を極めていた頃、日本からの新しいクリエイションに湧くパリに戻ったベルナール・アルノーはニューヨーク滞在時に知り合った投資銀行LAZARD FRÈRESの関係者の支援を受け、ブサック社という経営難に陥っていた繊維業界大手グループを買収する。会社の事業は傾いていたが、この会社はグループ内にフランスの高級ブランドとして知られていたCHRISTIAN DIOR、そして百貨店のル・ボン・マルシェをその傘下に収めていた。アルノーはブサックを買収後、CHRISTIAN DIORとル・ボン・マルシェを除いて会社が保有していた会社の資産や事業を綺麗さっぱり全て売却し、ラグジュアリー・ブランドに特化した企業へと作り変える。これが彼の初めてのファッション業界への参入となる。

買収劇から四年が経った1988年、LOUIS VUITTONとMOËT HENNESSYが合併してLVMHを形成してわずか一年後のことだが、ベルナール・アルノーはこのグループの株式をビールで有名なGUINNESSグループを通じて入手する。その後、一気に株式の取得を進めLVMHの筆頭株主となり、一年後の1989年にはグループの会長へと駆け上がる。ちなみにこの年の秋にパリで行われた春夏コレクションではマルタン・マルジェラが初めてパリコレクションに参加し、実験的なプレゼンテーションで聴衆を沸かせた時期でもある。

ベルナール・アルノーが会長に就任してからのグループの成功は、世界中の大都市の目抜き通りを歩けば一目瞭然だろう。都市の中心地にある高級百貨店の一階にはほぼ必ずと言っていいほどLOUIS VUITTONやCHRISTIAN DIORのロゴが輝いている。また、老舗ブランドにおけるクリエイティヴディレクターの人事の行方は、あたかも政府の閣僚人事であるかのようにファッションメディアの中で頻繁に話題に上るニュースだが、クリエイティヴディレクターをヘッドハンティングしてブランドの上に効果的に配置するという業界の中での戦略的慣習さえも、LVMHによって80年代後半から90年代初めにかけて積極的に始められたものだ。買収した当初は勢いを失っていたCHRISTIAN DIORにイタリア人のジャンフランコ・フェレを当て需要を掘り起こし、買収先のデザイナーであるマーク・ジェイコブスを傘下のLOUIS VUITTONに当て、前衛的デザインの流行の兆しが見えるとジョン・ガリアーノをCHRISTIAN DIORに配置した。逆にエディ・スリマンなど、効果的にタレントを利用するためには組織の方を変えることもいとわず、傘下のCHRISTIAN DIORにはDIOR HOMMEを新規に立ち上げた。そして看板ディレクターは時代に合わせて戦略的かつ冷徹に取り替える。今日ではCELINE、GIVENCHY、LOEWEなど傘下に収めたブランドは16、宝飾品やその他の事業を含めると70を傘下に収める巨大企業である。

投資先はファッションブランドに留まらない。ファッション業界への大きな人材供給源であるセントラル・セント・マーチンズには巨額の投資を行っているし、あまり知られていないことだが、LVMHが運営する投資会社L CAPITAL(現在は合併してL CATTERTON)は多数のファッションアイコンを生み出す韓国の芸能プロダクションYG ENTERTAINMENTの二番目の株主であり(創業者に次いで10%超のシェアを持っている)、他にも中国のスキンケアブランドやインドを拠点とするラグジュアリーグッズのディストリビューター、広告会社やレストランチェーンなどの株主でもある。全ての投資先が本体のLVMHの事業と直接的ではないが、潜在的シナジーを生み得る未来を見据えたものとなっており、その視野は驚異的に広い。

これまでに沢山の大資本家がファッションブランドの買収劇を演じてきたが、ベルナール・アルノーほど抜きん出て成功してきた投資家の例は殆ど無い。おそらくこれはファッションという世界の中に数字では表現しにくい、非言語化された独特の商習慣やプロトコル、倫理感が存在しているからで、資本を注入すれば成長するという簡単な図式の障害になっていたからだろうと思う。アルノーの成功はおそらく、元々は辺境の人間でありながら、複雑な業界内にある原理や倫理を解読し、その言語を書き換えることが出来たからこそ生まれたものなのだろうと思う。

今日ではブランドがこうした巨大なホールディング会社の傘下に収まることは当たり前になってしまった。確かに多くのデザイナーの出身国は市場が飽和しているため、沢山の販売チャネルを持つ大資本と繋がることは大きなメリットになる。企業を立ち上げて自分のペースで少しずつ拡大していくという昔ながらの戦略をとることよりも、デザイナーを含むブランドの創業メンバーが外部資本の注入を歓迎し、そのネットワークを使って成長を加速させ、頃合いを見て売却をしてしまう。確かにその方が経済的メリットは大きいのかもしれない。

しかし、最近その副作用も見え始めている気がしてならない。創り出されるアウトプットが実際に物を消費する消費者や顧客ではなく、有名なショップやインフルエンサー、更に極端な例を言えば投資家を向いてしまっているブランドも随分と多くなってしまった。物を売って成長を重ねるのではなく、瞬間的な注目を集めて外部資本の注入を誘う。もはや創り出される服や靴は商品ではなく宣伝材料でもあり、それを作るブランドや会社、ないしは人自体が売り物になっている。

巨額の資本の動きに右往左往される業界の様子を見ていると、ファッションの世界も少しアメリカのシリコンバレーに似てきたように思えてくる。注目さえ浴びると未完成なプロダクトを作るスタートアップに沢山の投資家が群がり、投資家を集める口実を作るためにスタートアップは様々な広報活動を行う。更にはその広報活動のための新しい会社が生まれるという始末である。実際に行われる投資の大半は勿論成功しないのだが、一度上場や売却ともなれば小さな投資が何倍のリターンとなって返ってくる成功体験の拡散は更にそのゲームのプレイヤーを呼び寄せる。

2017-18年秋冬コレクションでBALENCIAGAが「KERING」のロゴをプリントしたスウェットを発表した。ストリートでは話題にならなかった業界のバックエンドの企業名が表に出てくる時代になったのかと思うと、この世界に一つの転換期が迫っているような気がしてならない。実際にいまやシリコンバレーをはじめとした外側からまたファッションの外縁へと人が流れ込み、辺境には次のベルナール・アルノーの座を狙う影がちらつき始めている。

今ファッションとは何なのだろうかということを考える時期に来ていると思う。そもそも「ファッション」のデザインとは、何を射程にしたものなのだろうか。自らの意思だけで装いや生き方を選ぶことの出来なかった時代、かつてファッションは人を記号として見る世界をハックするための革命装置だった。誰もが衣服や生き方を選択出来るようになった今、我々は何をハックすればいいのだろう。こんなことを考える時、筆者が20代前半の頃に出会った荒川修作氏の言葉をふと思い出す。芸術家と建築家の間を絶え間なく運動していた彼は、いつもこう言っていた。「社会を変えるためには、その構成要素である人間の倫理を作り変えなければいけない」と。そして「それを可能にするためには、人間の身体を変えなければならない」と続けた。ファッションも今、こうした長い射程を大胆に見据えてもいいのではないかと思う。UNFASHIONABLEかもしれないが。抽象的に大胆に。今までにないやり方や考え方を。もし世の中を人間の倫理まで変えられるなら、その可能性に集中して時間を割いてみるのはそんなに悪くないような気もする。いつも革命は辺境から生まれてきたのだから。