Essay
崩壊から生まれる新しい人間たち
『アイデア』No.390(2020年)掲載原稿。
現代ファッションの誕生
ソヴィエト連邦を建国したウラジミール・レーニンはかつて「There are decades where nothing happens; and there are weeks where decades happen.(何も起きない数十年もあれば、数十年のことが起きる数週間もある)」という言葉を残している。我々はいま、2019年の11月から徐々に始まったとされるコロナウィルスのパンデミックによって、数週間の間に数十年が凝縮されたような日々を連続して過ごしている。
実はいまからちょうど30年前の1989年の11月は、ひとつの大きな転機が訪れたタイミングでもある。そのとき、ベルリンの壁が崩壊し、この一週間後にはチェコスロバキアでは反共産主義体制を訴える革命が勃発する。冒頭に挙げたレーニンの言葉通り、ものの数週間に起きた事件はその後も連鎖し続け、2年後にソヴィエト連邦という強大な体制が崩壊した。11 元外務省主任分析官の佐藤優『自壊する帝国』(新潮社、2006年)では当時、ソヴィエトや東欧に居る若者たちの姿がリアルな形で描かれている。
ソ連の崩壊が始まる1988年から1年間は、現代のファッションを俯瞰する上で重要な時期である。1988年には三宅一生がプリーツの開発を始め、COMME des GARÇONSが『SIX』を刊行し、そしてヴィム・ヴェンダースが『都市とモードのビデオノート』で山本耀司を撮影している。22 80年代は日本の代表的なアパレル資本が海外デザイナーに投資しインキュベーションをしていた。マーク・ジェイコブスとジャンポール・ゴルチェは80年代前半にオンワード樫山による投資によってブランドを立ち上げて独立する。またダナ・キャランは滝富夫が率いるタキヒヨーの投資によってブランドを立ち上げている。この3つのうち2つが後にLVMHの傘下になったというのは考えさせられる。余談だが、村上春樹が『羊をめぐる冒険』(講談社、1982年)の英訳『A Wild Sheep Chase』(Kodansha USA)を出版し、英語圏に本格的な進出をしたのも1989年である。 当時、日本の動きに影響を受けたデザイナーが活躍した時期でもある。このとき、ベルギー人のマルタン・マルジェラは初めてのショーを行い、またオーストリア出身のヘルムート・ラングが米国で注目を集めていたタイミングでもある。そして忘れてはならないのが、パリやニューヨークが新しいシーンの到来で熱狂に湧く間、ベルナール・アルノーがCELINEとLVMHを1988年から翌年の1989年の間にM&Aによって手中に収めていたということだ。
様装 – 新しい服が新しい人間をつくる
「Clothes make the man.(服は人間をつくる)」という言葉も小説家のマーク・トゥエインの言葉だが、80年代に誕生したDCブランドによる脱構築的アプローチのファッションが受け入れられたのは、その服が戦後社会の社会的ヒエラルキーへの従属に対して抵抗するためのユニフォームとして必要とされていたからである。33 ニューヨークで生まれた現代美術の流れも、既存の上流社会のヒエラルキーに対抗するかたちでマーケットに受容されていった。「他者がまだ認めにくい、新しいものを手に入れ、受容して押し上げること」はコレクターにとって、ひとつのファッションの様式とも言える。60年代から70年代の現代美術のプレイヤーによるオーラルヒストリーをまとめた『アート・ディーラー – 現代美術を動かす人々』ローラ・ディコペット、アラン・ジョーンズ著(PARCO出版局、1988年)はいまのファッションの流れをみる上でも学びが多い。 パリの外側からもち込まれた強い個性から生まれるファッションデザインは、ただ単に新しい衣服をつくるという枠組みを超え、提示する「装い」から新しい人の生き方の「有り様」を映し出す役割へと変容した。現代ファッションの発展は社会の発展に伴う新しい人々の誕生と表裏一体である。それはデザイナーのみならずファッションに携わる、バイヤーやセールス、ショップオーナー、メディアやPRという関係者全員が新しい人間をつくるというプログラムに参加することで変化を遂げてきたのだ。
かつてArtを「藝術」、Philosophyを「哲学」と翻訳した西周であれば、この新しい人間をつくる「ファッション」をどう翻訳しただろうか。44 徳川慶喜の側近であり、維新後に明治政府の官僚でもあった西周(1829-1897)は複数の外来語を日本語に翻訳した。進化、科学、技術、経済、知識、概念といった言葉も彼が翻訳したものである。そしてその多くは現在、中国語話者に使われている。 人の「有り様」と「装い」の様相である事実を鑑みれば、ファッションを「様装」と翻訳すべきではないだろうか。流行は様装のひとつの側面に過ぎない。55 ちなみに中国語ではファッションのことを時装と書く。元々fashionはラテン語のfactio(do, make)に由来する。modeは「manner, way」という物の様相を指し示す言葉。「様装」という言葉で大きくファッションを捉える視点の詳細については『ファッション、離散化される人間の様装』(ÉKRITS、2016年)、英語版『Designing Nearby, Designing In-distance』(ÉKRITS、2020年)の記事で言及した。http://ekrits.jp/en/
マクロなファッションデザイン
ファッションデザインはひとりの個人が、多面的な人間(分人=dividual)であることを可能とするユニフォームを提供した。66 個人(individual)に対して分人(dividual)という考えにもとづいた新しい社会の展望については、鈴木健による『なめらかな社会とその敵』(勁草書房、2013年)に詳しく述べられている。 その一方で新しいファッションを作るデザイナーには、一貫した個(individual)が求められる。これは皮肉な話かもしれない。
どの創作においても、常に起点となるのは個人の探求だが、それゆえにブランドは常にアイデンティティの限界を孕んでいる。強力なコンセプトによって作られたソ連が時代とともに内部矛盾から崩壊したのと同様、普遍的で時の経過に耐えうる一貫したコンセプトを維持するのはなかなか容易ではない。
この相反性を上手く利用するプレイヤーがベルナール・アルノーをはじめとする、ファッションの外側から登場した新しい資本家である。歴史あるブランドの製品開発やディレクションに外部のデザイナーが関わり、ブランドの「クリエイティブ・ディレクター」や「アーティスティック・ディレクター」といった名称でブランディングを行う仕組みはカール・ラガーフェルドがFENDIのデザイナーを務めて成功したことから、徐々に一般的なものとなった。ここ10年の間、LVMHやKERINGによる各ブランドのクリエイティブ・ディレクターの抜擢は、最も注目を集めるファッションの話題のひとつだが、この現行のシステムを当たり前にしたのが、80年代の黎明期にファッションの世界に参入していた前述のベルナール・アルノーだ。
アルノーが買収した当初は勢いに欠けていたChristian Diorに、イタリア人デザイナーのジャンフランコ・フェレを抜擢し、1996年には前衛的なデザインの流行に合わせてジョン・ガリアーノを後任に当てる。グループのメインブランドであるLouis Vuittonには、クリエイティブ・ディレクターとして買収したブランドのデザイナーであったマーク・ジェイコブスを起用し、旅行用鞄のブランドを総合的なラグジュアリーブランドに変貌させた。そして2000年には、過去存在しなかったChristian Diorのメンズラインの立ち上げのためにエディ・スリマンを起用し、メンズウェアの新たな潮流をつくり上げた。その後もDiorの近代化に向けてラフ・シモンズを投入し、新興国市場を見据えたキム・ジョーンズの採用、そしてヴァージル・アブローのLouis Vuittonへの抜擢まで、マクロ経済と社会情勢の流れを読みながら、時代に応じてメゾン全体の価値を高めていった。こうしたキャスティングや投資によって行われるブランドイメージの更新は、この数年では特に支配的手法である。この動きを「ファッションという現象のデザイン」とみれば、これは「マクロなファッションデザイン」と呼んでも良いだろう。
並行して走る現代ファッション史
2016年の米国の大統領戦からコロナウィルスによるパンデミックが始まるまでの間、金融市場には資金が溢れ、有象無象のスタートアップに投資が行われてきた。その極限では、多くの新しい起業家にとっての目標はもはや、MicrosoftやApple、あるいはGoogleといった大企業をつくることではなく、むしろ起業した会社自体をそういった大企業に売却することである。この様子はここ数年のファッションの世界にとっても無縁ではない。ファッション・ウィークの場は、かつてのようにブランドが消費者やプレスに向けた新しいメッセージを発するだけではなく、新興のファッションデザイナーにとっては資本家に対してアピールを行うピッチ会場として活用されている。いま、こうしたファッションブランドが売るものはもはや衣服ではなく、むしろブランドそのものになりつつある。そしてマクロなファッションデザインを行う投資家たちが求めるものは、たとえ短命でも、いまこの瞬間にフォーカスして時代性のあるイメージをつくることができるデザイナーである。
パンデミックを超えて
こうして振り返ると30年の現代ファッションの歴史には2つの流れが存在していることがわかる。ひとつはCOMME des GARÇONSによって2017年に開かれたメトロポリタン美術館での展示で大きな節目を迎えた、強力な個人たちによって紡がれたファッションの歴史である。77 存命中のデザイナーが展覧会を開いたのは2回目だが、1983年に開かれたイヴ・サンローランの展覧会の評価は、美術関係者からは評判が良くなかったと言われている。この結果、現役のデザイナーがこの場で展覧会を開くハードルは高くなったのではないかと考えられる。このエピソードについては展覧会の図録でアンドリュー・ボルトンが語っている(アンドリュー・ボルトン『Rei Kawakubo/Comme des Garçons: Art of the In-Between』Metropolitan Museum of Art、2017年、23頁)。 そしてもうひとつはその背後で個のファッションデザイナーを巧みに利用して拡大してきたベルナール・アルノーやフランソワ・ピノーというマクロなファッションデザインの歴史だ。
現代ファッションは辺境で生まれた異質な様装を、半年に一度、欧州文化の中心地であるパリで行われるファッションウィークという儀礼のなかで消化することによって常に進化を遂げてきた。そのシステムはパンデミックによって変わるのだろうか。システムの崩壊を危惧する声も聞こえるが、それはもしかすると杞憂に終わるかもしれない。かつて100年前に女性をコルセットから開放し、絶大的な影響力のあったポール・ポワレはスペイン風邪と第一次世界大戦の後に霞んだが、荒廃した社会のなかでCHANELが生まれた。現代のようなファッションウィークの形式を生んだのも、第二次大戦中、ナチスの占領によって力を失ったパリの代わりに立ち上がったニューヨークの人々であり、戦後にそのシステムの発展を陰で支えたのは資本主義経済の成功を遂げて覇権国家となったアメリカとその市場だった。危機によってシステムは崩壊することなく、新たなプレイヤーを生み出しながら、常にアップデートを行ってきただけとも言えるのだ。88 ファッション・ウィークの組織が生まれたのは、第二次大戦下の1943年のニューヨークが最初だ。その当時、アメリカは第2次世界大戦の最中で、パリはナチス・ドイツの占領下だった。プレタポルテのファッション・ウィークが行われたのは1973年である。日本では沖縄が1972年5月に返還されたばかりで、アメリカは泥沼化したベトナム戦争の最中だった。70年代はこれまでパリの模倣ばかりしているとされていたアメリカのファッションが、世界的にプレゼンスを示し始めていたころでもあった。ファッションに限らず、アート、音楽、映画など、様々な大衆文化の領域でアメリカの存在感が世界で際立っていた。ヴェルサイユ宮殿で行われたパリとニューヨークのデザイナーたちによる合同ショーには、イヴ・サンローランなどが参加した。アンディ・ウォーホルも観客として現れている。このあたりの歴史はロビン・ジヴハンによる『The Battle of Versailles: The Night American Fashion Stumbled into the Spotlight and Made History』(Flatiron Books、2015年)に詳しく書かれている。
ここ数年、ファッションの話題には過去の偉人の軌跡の話がよく流れている。過去を学び未来を考えるのは定跡だが、行き詰まった現代思想家が、既に死んでしまった偉大な哲学者を我田引水するような状況に似ていなくもない。
かつて芸術家の荒川修作が、現代哲学を指して「今の哲学なんていうものは全部間違っている。ゴミ箱に捨てろ、そしてそのゴミ箱もゴミ箱に捨てちまえ!」とものすごい剣幕で怒っていたのを目にしたことがある。次に何をするべきかという問いの答えを人は探すものの、未来において新しいこと、心踊ることはこういった本の中で予言されることは殆どない。むしろ荒川のように、この本を燃やして、その炎を見ながら思考をし、仕事をしているくらいが本当はちょうど良いのかもしれない。現代の終焉のあとには「ポスト現代」が現れ、私たちは新たな歴史の韻を踏む。30年で世界が激変したことを考えると、この時代に次の新しいことが起きない理由はないのだ。過去を理由に新しいことを実行することを躊躇してはならない。