「懐かしむ」とは過去を対象とする行為だ。古典を読めば古の人々が我々のように感じ生きている事を知り、経験していない世界を懐かしむことができる。歴史を俯瞰すると国境、人種、そして時を超えて人間の普遍性が我々と過去の人々をつないでいることに気づく。聖書や仏典、古代の哲学者の手記などは今も現代人にヒントを与え続け、その解説は枚挙にいとまがない。我々は現在を生きながら、過去の偉人の言葉の解釈に心を砕いている。
我々の知る「過去」は文書に残される事でその存在を現代に残してきた。時代を経て生き残った言葉が、現代の言葉よりも丁重に語られるのは自然な事なのだろう。『ノルウェイの森』に登場する永沢さんが死んだ作家の小説しか読まないと語っていた事を思い出したが、実際に人は昔から死者についてはよく語る一方で、今生きている人について語る事は比較的少ない気がする。
残るか残らないかという話に限れば、現代人もInstagramやTwitterなどのソーシャルメディアでの影響力、あるいはGoogleで検索される際のヒット数で自分の存在を歴史の中に確保することになるのかもしれない。千年残るかどうかは別として、この文章も実際に何処かのサーバーに保存されるだろう。ただそれは我々が実際に見ている現在の一部の側面にすぎない。
過去についてはどうだろうか。こうして考える時、いつも語られること無く姿を消してしまった人々の事を想像する。ソクラテスやプラトンは古代ギリシャの代表人物には違いないが、彼らの時代の日常にはどんな人々が暮らしていたのだろうか。おそらく日常で出会う無名だが機知のある人々が古代の都市にも居たはずだ。
6、7年ほど前に奇妙な導きによってファッションの世界に足を踏み入れてから、人間の有様について考える事になった。様々な国籍、人種、そしてアーティストから職人まで種々の経歴の人々と仕事をすることにもなる。グローバル化により世界がフラットになることを予測した知識人の言葉と裏腹に、私が出会った人の中には一般化されることなく、極めて個人的な体験から生まれた智慧と共に生きる人がいた。
この連載では、エセーを徒然と書きながら、筆者が実際に会って話をした現代の人々を有名無名問わず紹介し、ほんの少し前の過去と現在を懐かしんでみたいと思う。
「8月に東京に行くので。会いましょう。」
メールボックスのアイコンに赤い通知マークが浮かんでいて、誰かと思ったらマイケル・ウルフ(Michael Wolf)だった。
4年前に作品集を見て感想を送って以来、定期的に連絡を取り合うことになった香港在住のドイツ人の写真家である。彼の存在を初めて知ったのは、街のある書店で本棚に収まりきらずに飛び出していた『Hong Kong Inside Outside』という2分冊の大きな作品集を目にしたのがきっかけだ。
『Outside』と書かれた1冊目の作品集には、何世帯があるのか把握できないほど夥しい部屋数を持つ巨大な香港の集合住宅を撮影した写真が収められていた。一面に広がった無機質なビル群の表面はコンピューターによって生成された平坦な幾何学的パターンの様に見える。自然という言葉を聞けば山野の風景を連想するかもしれないが、そこに写る人工的物のビルは新しい自然から生まれたようなものに見えた。
“Architectural Density” ©Michael Wolf
その写真集を眺めていると、自分が東京に住んでから時折感じていた不思議な感覚が蘇ってきた。都会に聳え立つ巨大なビルを地面から仰ぎ、窓から漏れる光を見ると、その先に大勢の人間の生活が収まっているという当たり前の事実をどうも実感として受け止めることができない。一人一人の人間の様相、物理的寸法で測る事のできない日々の人間の営みが、輸入物のチョコレートのように規則正しく無機質な箱の中に収まっているという漠然とした事実にいつも違和感を感じてしまうのだ。
二分冊目の『Inside』と書かれた写真集を開くと、まさに自分が考えていた先の風景がそこにあった。本の中には巨大な高層住宅に実際に住む住人の姿が並べられていた。決して広くはない30平米程度のワンルーム。その中で溢れかえる家具や日用品と共に佇み生きる人々の姿だ。その横には作者のマイケルが作った質問とそれに対する住人の返答が記されていた。
“What is your name?”
“How old are you?”
“How long have you lived here?”
“What is your profession? / What was your profession?”
“What do you like about living here?”
“100×100” ©Michael Wolf
マイケルとは新宿駅西口の広場で合流することになった。真夏の昼間に開口一番「ラーメンが食べたい」と言い出した異邦人を、近くにあるお勧めのラーメン屋に連れて行き、数十分後にチャーシュー麺を食べて上機嫌になった彼と今度は新宿東口の方にある古い喫茶店へ向かった。道を歩きながら、一軒一軒どうやって巨大な集合住宅の住人を撮影したのかと尋ねると、一人で訪問したら警戒して相手にしてもらえず、老人のケアワーカーの訪問日合わせて付いて行き潜り込んだそうだ。
「どの家にも必ず置いてある物があったりして面白かったね。何故ここに住んでいるのかと聞くと、家賃が安いというのと友達が住んでいるからここに居ると皆話していたのもリアルだった。」
この日、彼は『Tokyo Compression』という連作を撮影するために新宿に来ていた。小田急線が改装後、気に入って撮影している場所がなくなってしまうと聞きつけて急遽来日を決めたとのことだ。最後のチャンスだから撮り溜めをしないと、と彼は話していた。
“Tokyo Compression” ©Michael Wolf
このプロジェクトは満員電車に押し込まれた東京の人々をドア越しに撮影したものだ。いつもは行儀の良い人であっても、通勤時間帯の窮屈な車内では顔を歪め、感情をなんとか押し殺そうと必死な表情を見せる。撮影された事で怒りを表す人もいる。
喫茶店に着いてコーヒーカップが空になる間に我々は打ち解け、彼はこれまでの事をいろいろと話しはじめた。フォト・ジャーナリストからアーティストへと転向した話、家族の事、好きな小説や祖国ドイツと少年時代を過ごしたアメリカ。
元々ドイツの雑誌『Stern』で長年フォト・ジャーナリストを務めていた彼は、仕事で返還前の香港を訪れ、1994年に移住を決めた。パリや、アメリカ、故郷のドイツに比べて毎日変化に富んでいること、想像の斜め上を行く香港人のエネルギーに魅力を感じたからだ。移住してからは次第に街の何気ない表情を収めた写真をアート作品として撮り始めることになる。
アーティストとしてのデビューは2001年、47歳になった時のことだ。この年齢からアーティストとして活動を始めるのは比較的スロースターターとも言えるが、デビューしてすぐに彼独自の実験的作品は世界各地で注目を浴びることになる。
日常を上手く切り取りさえすれば、そこに作為的な世界を超えた非自明なシーンが生まれるという考えは、こう書いてしまうと当たり前に響くが、実際に撮影された一枚一枚を眺めると我々が生きている現実の面白さ、滑稽さ、あるいは異常さのようなものに圧倒される。
“Hong Kong Glove” ©Michael Wolf
「香港は便利な街でね。例えばパリだと1つの事を終わらせるのに30日かかる事があるけれど、香港だとその逆の事が起こる。30件の用事が1日で一気に済んでしまう。僕は両極端に拠点があるのが良くて、僕はどちらかに疲れたら一方に帰る。」
瞬間を捉えた写真といえばロベール・ドワノー(Robert Doisneau)が1950年代に撮影した『パリ市庁舎前のキス』(Le Baiser de l’hôtel de ville) が有名だ。しかし、恋人同士がキスをした瞬間を捉えたこの写真は演出だったという事が今では知られている。
マイケルの作品の面白さは、批判することもなく、斜に構えることもなく、作り込まずに現実の喜劇性や悲劇性を楽観的に捉えるところだ。
Google Street Viewで撮影された人のプライバシーが話題になった2010年頃、彼はパリやニューヨークのStreet Viewをキャプチャして編集した作品を発表する。Googleのカメラに向かって中指を立てる人々、排便しながらカメラを見つめる犬などを集めた『FY』、自転車で転んだり、道で倒れたり、運が悪い人達の瞬間を集めた『A Series of Unfortunate Events』。そして『Paris』という作品集の中には、ドワノーへのオマージュとしてキスをする恋人達の写真も収められていた。
“FY” ©Michael Wolf
“Paris” ©Michael Wolf
真夏の新宿、虫取り網を持つ少年のようにカメラを手にして歩く中年のマイケルと一緒に路地裏を歩くと、都市には都市の自然が在るという事を知った。
“Hong Kong Inside Outside” Peperoni Books (2009)
“Tokyo Compression” Peperoni Books (2010)
“A Series of Unfortunate Events” Peperoni Books (2010)
“FY” Peperoni Books” Peperoni Books (2011)
“Hong Kong Trilogy” (2013)